第二話 Episode 1「10代 とにかくしんどい事をやる」 – 走れ初期衝動 〜好奇心を燃やし続けるために〜

大阪を拠点に活動する建築ビジュアライゼーション制作会社「インカー・ドローイング株式会社」は、人の心を掴む“モテパース”をクライアントワークで実現する集団です。

これから建築ビジュアライゼーション業界に進む方や興味をお持ちの方に向け、全6回にわたり代表取締役である梶野潤さんのコラムをお届けします。

人生の原動力となる好奇心は、どうやって持続させているのか。仕事論だけではなく道に迷った時に読み返したいような人生論に至るまで幅広い内容を、ギュッと詰め込んでお届けします。

前回は、手札の少ない状態において自分がいかにして好奇心のきっかけを見つけてきたかという話をしましたが、今回は10代の話。夢だけ追いかけていても虚しくなることを思い知り、同時に“自分に足らないものは何か”を考えはじめます。

プロフィール

梶野 潤

インカー・ドローイング株式会社 代表取締役
1972年、京都府出身。
京都市立伏見工業高校(現・京都工学院高校)工業デザイン科、大阪芸術大学芸術学部デザイン学科で学んだ後、’97年にゲーム制作会社に入社。背景グラフィッカーとしてゲーム内ダンジョンの制作を担当する。
その後‘00年より建築業界に転身、パース制作を始める。’06年独立後、’12年、「インカー・ドローイング株式会社」へ法人化。
URL:https://inkarinc.com

1984年、小学生6年。

毎年の慣例に従い、家族で正月に映画を観に行った時のことだ。
当時正月といえばアクション香港映画と決まっていたのだが、その年は期待に反して上映されていなかった。正月早々思いっきり肩透かしを喰らったが、落胆した顔をあげた先には“バック・トゥ・ザ・フューチャー”と書かれた、今では懐かしい手書きの看板があった。
心の中の「全然見たくない」という絶望感を家族にバレないようひた隠し、渋々観たこの映画がのちに自分の人生を変えることとなる。

映画が始まった瞬間こそ「なんやねんこのたくさんの時計は」と訝っていたが、そこから畳みかけるように映し出された大きな倉庫、ファッション、スケボー、音楽、そしてタイムスリップした1950年代の世界。ストーリーもさることながら、その世界観に圧倒され、ずっと雷に打たれるような感覚を覚えた。何もかもクールすぎて、同じ世界に住んでいると思えなかった。しかしよく考えてみると、アニメではないので現実にある世界で撮影されたものである。同じ時代に、どこかで彼らは生きている。果てしなく遠い共通点だが、当時の自分には充分な希望を与えてくれた。“自分もできるかもしれない……”
前回の自転車で飛んだときと同様、この映画のような世界で生きたいと強く思った。

映画館を出ると早速スポーツショップへ行き、こういう時のために持ち出していたお年玉でスケボーを買った。ポータブルのカセットプレイヤーを装着し、どこのメーカーかわからないジーパンとスニーカーを履く。手持ちの品々を引っ張り出して無理やり映画の世界に入り込んでは、近所の大人が運転する軽トラの後ろに捕まって寂しい農道をスケボーで走ったり、借りてきたエレキギターを茶工場に持っていって小さなアンプで音を出してみたりした。
しかし興奮するのはほんの一瞬で、すぐに砂上の楼閣のような空虚感に襲われる。無論その理由はひとつである。
「まだ本当に楽しむための経験も根性も何も持ってない」
果てしなく中途半端、つまり納得感に欠けていた。
いつの世も、またどんな世代でも、“何かが欲しい、これがやりたい”を左右するものは自分が納得しているか否かである。ここが抜け落ちていると何をやってもなんとなく白けてしまい、せっかく芽生えた好奇心が長続きしない。
また、何かを追求するプロセスにおいて湧いて出る便利な要注意ワードが“これが現実”である。この言葉の怖いところは、その実態が何なのかわからないにもかかわらず、自前で都合の良い“現実”を作り出しては無用な納得感を得てしまうところにある。そんな豊かな想像力があるのなら初期衝動を膨らませるのに使ったほうがよほど建設的だろう。想像の範囲内だけで動いていては想像を超えるような体験を得ることは絶対にできない。もし得られたとすればそれは宝くじと同じようなもの、つまり偶然である。偶然をあてにしていたら人生が何年あっても足らない。しかも初期衝動はその姿を見せた途端に逃げていくのでなおさらである。
ともあれ、いくら考えても当時はこれだという解決法が見つからず、虚無感に苛まれるほどには成長していた。

父親からのヒント

ちょうどその頃、父親の気まぐれな説教で珍しくヒントを得た。
「何かに迷ったら、簡単なほうより難しいほうを選べ」
昔から散々言い尽くされてきた普遍的な人生訓だが、その言葉の行間には妙な説得力があった。鬱積した暗闇の真っ只中に何か道のようなものが見えた気がした。
まず己の納得できるレベルを知るために、何においても最大公倍数を出す……つまり理不尽でしんどいことを徹底的にやってみることが、好きなことを掘り下げる一番の近道だと思った。

それは中学3年生、高校進学を決める際に顕著にあらわれた。
当時世の中は空前のバブル絶頂期に湧いていて、世間はとても明るい雰囲気に覆われていたが、子供ながらに「こんな世界がずっと続くはずがない」と少し斜に構えて見ていた。さらには「こんな状態で流されて生きていると、まさかの時に生きていけない」そんな危機感すら感じていた。すでに人生をハードモードに切り替えていた私は、とりあえず将来に必要であろう3つのものを定めた。
“持続できる精神力・手につけた職・疲れない体”
世界が混沌としてもこれでなんとか生きていけるだろう……まさに中二病ど真ん中の私が考えた心・技・体を実現できるのはきっとスポーツの強い工業高校しかないと考え、地元から離れた伏見工業高校に進学した。入った部活はラグビー部。全国優勝経験のある花園常連校である。
しかし常勝を目指すチームの日常は、限界の向こう側を知るには充分すぎた。あまりにもストイックすぎた選択に自問自答する日々。おそらく人生で一番精神的にも体力的にもしんどかったのはこの時期だろう。しかし殊更に自己犠牲が求められるこの競技は学ぶことがとても多く、やめたいと思ったことは一度もなかった。理不尽な出来事に比例し、筋肉量も増えていった。

入部してまもなく、ミーティングで、初めて全国制覇を果たしたときのビデオを見た。かつて不良だらけの弱小校が輝かしい日本一決定戦に臨む。緊張に包まれた円陣。その中に入った先生が檄を放つ。「お前ら見てみろ、この会場のお客さん皆お前らのこと観にきたんだぞ!」
名誉ある大会に押し寄せた観客、家族。その思いや誇りがすべてフィールドにいる30人の肩にかかっているのだ。自分もビデオの向こう側の一言で鼓舞され、新入生ながらチームにいることの誇りを感じた。
その先生は元日本代表選手で、家に泊まったある夜に当時の戦歴を話してくれたことがある。イギリスやニュージーランドにおけるラグビーというスポーツの文化、スタジアムの熱気、町のあり方。“その熱気の一番近いところに今お前たちもいるんだ“と、誰にでも栄光に向かって走る機会と権利があることを教えられた。
現在、スタジアムの仕事に対して思い入れが強い理由でもある。

また授業もハードだった。当時はまだパソコンがまったく普及しておらず、図面を引くのも烏口、プレゼンボードを作るのもスプレーのりとカッターで切り貼りするという具合。少しでも間違えるとすべてやり直しになることもザラだったが、その都度先生の「神様がこれじゃないと言っている」という慰めとも諦めともつかない言葉を投げかけられた。おかげで今でもパソコンが落ちたりすると、当時と同じ言葉を自分にぶつけている。

当時描いていた絵。ペンで線入れをし、コピックで着彩する。いくつかの絵に当時の迷いが見える。

当時描いていた絵。ペンで線入れをし、コピックで着彩する。いくつかの絵に当時の迷いが見える。

授業では家具や絵本を作ったり、自らデザインした製品のモックを作ったりといろんな授業があったが、特に夢中になったのはコピックとパステルを駆使した手描きのレンダリング授業だった。今でこそCGでの表現が当たり前になったが、昔は職人の手作業に委ねられていて、優れたレンダラーが描いた工業製品の画集もあった。
当時この手描きレンダリングがプロ並みにうまい先生がいて、休み時間を惜しんで教わった。しかし納得できる仕上がりには程遠く、それは進学のため画塾に通い出してからも同じだった。
しかし絵を本格的に習い始めると、うまい人とそうでない人にはある一定の線が存在することに気づいた。彼らは何かを知っている。それはセンスとか技術ではなく、毎日とにかく無になるまでデッサンを描きまくった先にある日突然得られるもので、朧げだがとてもシンプルな何かだった。当時は仲間同志で手を真っ黒にしながらこの「ある日」を渇望し、仲間の誰かに「ある日」が来るとみんなで喜んだ。
そして「ある日」は自分にも、入試本番において突然訪れた。
・好きではないものを描かない
・奇を衒うな
・“明るい=絶対明度“ではない
・モチーフと対話する
やりたいことに正直に、小手先で目立とうとせず、物事の本質を追いかけ、人の話に耳を傾ける……これ以上納得できる気づきがあるだろうか。否、ない。美術・デザインとはまさに哲学である。
「問題を投げかける側、解決する側」。似ているが相反する二つの学問から“納得”の探し方を得た気がした。

10代で得た財産はかけがえが無いと言われるが、この時に得た経験は今でも大事にしていることばかりです。(実践できているかどうかは別として・・・)もしこれを読んでいる10代の方がいれば、とにかくしんどいことをやってみることをオススメします。というかこんなしんどいことは10代でしかできない・・・。

存分に最大公倍数を伸ばしたところで、次回は20代の行動から紐解いていきます。

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