第三話 Episode 2「20代とにかくバカをやる」 – 走れ初期衝動 〜好奇心を燃やし続けるために〜

大阪を拠点に活動する建築ビジュアライゼーション制作会社「インカー・ドローイング株式会社」は、人の心を掴む“モテパース”をクライアントワークで実現する集団です。

建築ビジュアライゼーション業界に進む方や興味をお持ちの方に向け、全6回にわたり代表取締役である梶野潤さんのコラムをお届けしています。
人生の原動力となる好奇心は、どうやって持続させているのか。仕事論だけではなく道に迷った時に読み返したいような人生論に至るまで幅広い内容を、ギュッと詰め込んでお届けします。

前回は、修行のような毎日のなかで「”信じる力”の基礎体力をつける」という10代の話でしたが、今回は20代に突入します。どのような人生の歩み方をされているのか、注目です!

プロフィール

梶野 潤

インカー・ドローイング株式会社 代表取締役
1972年、京都府出身。
京都市立伏見工業高校(現・京都工学院高校)工業デザイン科、大阪芸術大学芸術学部デザイン学科で学んだ後、’97年にゲーム制作会社に入社。背景グラフィッカーとしてゲーム内ダンジョンの制作を担当する。
その後‘00年より建築業界に転身、パース制作を始める。’06年独立後、’12年、「インカー・ドローイング株式会社」へ法人化。
URL:https://inkarinc.com

19歳 どれだけ“バカ”になれるか

19歳になってすぐの4月初旬。
私は大学前の長い坂の麓にいた。その頂上に聳え立つRC打ちっぱなしの建物に向かって一歩一歩、これまでの苦難の日々を思い出しながら歩き出す。すべてはこの日のために。
その日から私は大阪芸術大学の生徒となった。
学科はデザイン学科、専攻はインテリアデザインコース。希望に満ち溢れた初日だった。
ところが美しく舞い散る桜吹雪とは裏腹に、入学早々大問題が起こる。散々やりたいことを思い描いて合格したのに、いざ入学してみるとまったく面白いと思えなかった。その原因はあきらかで、このコースを選んだ理由にあった。
「競争率が他コースより低かったから」
”写真やグラフィックデザインを勉強したい”という当初の純粋な希望は、”どうすればあの学び舎の門をくぐれるか”という作戦にすり替わってしまっていた。つまり合格圏に媚び、受験コースを変更したのだ。本来やるべきことを忘れて、手段と目的を完全に履き違えていた。
その過ちは梅雨時には疑問となり、夏に後悔へと変わっていった。やはり心に嘘はつけない。
高校の時はしんどいながらも「自分で考えて選択した」という強烈な覚悟と納得があり、常に矢印が自分に向いていた。しかし大学に入った途端、心の矢印はすっかり向かうべき道を見失ってしまった。
なんとか4年間通ったものの、1月のある日突然何かが切れ、そのまま逃げるように大学を辞めた。結局あとに残ったのは退学という経験したことのない敗北感。
“心から楽しいと思えることを第一に“
純粋な気持ちを蔑ろにしたツケはとてつもなく大きい。

しかしここで何かが吹っ切れたのか、なぜか心は驚くほど軽くなった。それまで抱えていた後ろめたい気持ちがなくなったのだろう。
しばらく疎遠になっていた音楽や映画が再び心に火を灯し、脳内に風景が映し出され、新たな世界を探し始める。さらに、“敗北に暮れた経験”は“敗北を知っている強さ”に変わり、見える世界により彩りを添えた。再びジャンプ台を飛ぶ時だ。
抑えきれない情熱が理性や常識を超えたとき「この選択は間違っているかもしれない」と感じながらもとりあえず飛び込んでみると、思わぬ結果を呼びこむことがある。どんなに理不尽で常識外れだと思うことでも、心の声がやれと言うなら結果を恐れずとりあえずやってみる。
このプロセスが正解か失敗かを決めるのは自分の心一つ。つまり“恐れ”をどうコントロールするか、そしてどれだけ“バカ”になれるか。それだけである。

24歳 サバイバルOJT

そのバカな行動の象徴的な出来事が就職だった。
24歳のある日、友人から突然こんな話を持ちかけられたことがきっかけだ。
「ゲーム会社に興味ない?」
答えは「ない」。ファミコン世代のど真ん中なので多少ハマったことはあるものの、作る側の話にはまったく興味がなかった。しかしここで心の声が「いいから受けてみろ」と囁いてしまい、そのまま面接の日取りが決まった。
「キャラクターのデザインなら何かできるかもですが、パソコンは使えません。しかも大学中退です」という採用者から見れば不安しか残らないような問答だったが、なぜか合格した。この日から、ゲームを知らないゲームクリエイターとして働くことになった。
社名は(有)電脳映像製作所。創立したばかりの事務所には4人のメンバーがいた。当たり前だが全員パソコンで仕事をしている。その風景に呑まれて気後れしている自分を悟られまいとおもむろにコピックを持ち出し、さて何からやりますかと意気込んだ初日のミッションは「1日も早くCG覚えて」だった。コピックが泣いていた。
ツールは3D Studio R4。お馴染みの3ds Maxのご先祖様にあたるが、DOS版なので当然日本語版などない。なぜかPhotoshopも英語版。さらには渡された参考書も英語だ。知らない道具の使い方を知らない言語で覚えるというサバイバルOJT。理性と常識をそっと横に置いた。

最初に仕事を教えてくれた人はプログラマー。私語は多いが教えは少ない。
「選択範囲を制するものがPhotoshopを制する。以上」
「ポリゴンと文字数の無駄遣いをするな。以上」
「フォルダは常に整理。以上」
貴重な母国語で学んだことはこの3つ。犬の躾より少ない。もはや外国にいるような環境だった。
始めてパソコンの電源を入れた3日後、なんとか記念すべき初作品が完成した。作ったものは、暗く危なそうな雰囲気のある地下鉄のホーム。奥にはゾンビが隠れている。
未熟なレンダリングだが、その暗くおぞましいホームはとても輝いて見えた。ハリウッドだけの話だと思っていた世界を、自動販売機もない村で育った自分が、今この手で動かしている。
何も知らなかったからこそ、その感動は大きかった。エンターテインメントを提供する手段を得た興奮で、宝くじにでも当たったような気分だった。そこからは昼夜を忘れて夢中で作ることに没頭した。
道路、山、家、駅、店、ビル、部屋。いろんな建物を作っているうち、そのまま背景制作の専属となった。

梶野さん制作の背景

入社半年後、社長から「好きなように作ってみろ」と言われてからは、それまで鬱積していた創作意欲が一気に爆発した。モデリングに慣れてくると、次は演出を入れたくなるのが人の常である。霧を出し、錆びさせ、倒壊させ、爆発させた。経年劣化=正義と信じて退廃的美学の中に生命力を宿す日々。 極度にホラーなシナリオに加え、魂を悪魔に激安で売ったような世界観を構築していたためか、のちに世間では”稀代の鬱ゲー”と呼ばれた。(他に載せたい画像はたくさんあるのですが自重します。)
4年の在籍中に担当したのは、ダークメサイア(プレイステーション)、デスピリア(ドリームキャスト)の2タイトル。
リリース直前に幕張のゲームショーに行くと、ブースに集まった人たちが変わるがわるコントローラーを持ち、悲鳴をあげたり安堵の表情を浮かべたりしている。
「知らない人が自分の作った世界で旅をしている」
経験したことのない達成感と同時に、すごく重い責任感のようなものを感じた。

ダークメサイアとデスピリアのパッケージ

“旅と故郷”

それからは同僚と旅やイベントに出かけ、音楽を聴き、映画を見て、「明日はこれ作ってみよう」とまた悪魔に魂を売る日々。心を揺さぶる芸術は、エロスとタナトス(生と死の衝動)の繰り返しでのみ作られる。
理不尽と常識外れの先に待っていた世界はとても壮大だった。

退社後は思ったような再就職先が見つからなかったので、とりあえずネットオークションやバイトで食い繋いでいたが、その頃地元の仲間でバンドを始めた。
平日はアルバイトをして、週末になるとバンに楽器を積んでいろんな街のライブハウスやフェスに向かう。東京、北陸、九州、名古屋。いろんな街にバンド仲間ができ、音をぶつけ合い、酒を飲み、また友人ができる。
そしていつも帰り道に感じることは、彼らが育った街や故郷のことだった。この街で育った人間にしか出せない音。知らない土地でも、音を聞けばその土地の風景を感じることができた。そして、その土地に背中を押されるように地元に戻ってはまた音を出す。
街や故郷が文化を作り、またその文化は新たな景色を作る。10代の頃に抱いたスタジアムに対する憧れと同じである。

“旅と故郷”。なんとなく心の点と点がぼんやりながらも繋がった。音楽やCGには、誰かと同じ風景を共有できる力がある。仲間はもちろん、知らない人をも巻き込んで。それがひいては街づくりに貢献できる手段になるのでは……。ゲームで作った世界を誰かが旅をするように、現実の世界でもそれができるかもしれない。そこで見た新たな風景が、誰かの好奇心に火をつけるかもしれない。
大学ではグラフィックを諦めて選択した建築系コース。ゲーム会社でも、配属されたのはキャラクター系ではなく建築系チーム。思い返すと、結局自分は建築という手のひらの上でうろちょろしていただけじゃないのか……実はこれこそが、おれにとって社会に貢献できる術なんじゃないのか……。
20代最後の理性と常識を超えた行動は、“建築業界でCGを作る”という選択だった。

梶野潤

梶野潤インカー・ドローイング株式会社 代表取締役

記事一覧

インカー・ドローイング株式会社 代表取締役
1972年、京都府出身。
京都市立伏見工業高校(現・京都工学院高校)工業デザイン科、大阪芸術大学芸術学部デザイン学科で学んだ後、’97年にゲーム制作会社に入社。背景グラフィッカーとしてゲーム内ダンジョンの制作を担当する。
その後‘00年より建築業界に転身、パース制作を始める。’06年独立後、’12年、「インカー・ドローイング株式会社」へ法人化。

関連記事